2017年04月10日

尾崎放哉と井上文八郎の心

4月7日は尾崎放哉の命日でした。
5・7・5の形式にとらわれない自由律の俳人として知られる尾崎放哉(1885〜1926年)。
最期の8ヶ月を小豆島 南郷庵の庵主として過ごし、そこで生涯を閉じます。
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毎年この命日には、南郷庵の本殿である西光寺において、放哉を偲ぶ法要、お墓参り、小豆島尾崎放哉記念館見学、そして午後からは講演が行われます。
講演は、「放哉さんとの出会いの中で〜井上一二の世界〜」という演題で、「放哉」南郷庵友の会会員の森 克允さんがお話しされました。
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森さんは尾崎放哉を深く研究され続けていて、昨年は小豆島観光協会の主催セミナー「まるごと小豆島」でもご講演いただいています。
(*その際のブログはこちらから→http://shodoshima-tourism.seesaa.net/article/441453478.html

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今回の講演では、その際にもお話しがあった井上文八郎氏(俳人名:井上一二/1895〜1977年)について、さらに詳しく知ることができました。

井上文八郎氏は、小豆島土庄町の渕崎という地域にある裕福な醤油醸造家の次男として生まれました。子どものころより祖父に俳句を習い、俳人 荻原井泉水(せいせんすい)に師事します。

俳句を作りながら、若くして家督を継ぎ、醤油が全国大会で三等賞になるなど家業にも力を注ぐ一方、その人格から地元の塩業組合長や村会議員、数々の役職にも就いて社会的にも活躍します。
1924年(大正13年)、29歳の時に『渕崎土庄都市計画理想図』という絵図を描いて、実現に向けて尽力されました。
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そんな中、井泉水から、同じく門下であった尾崎放哉の世話を頼まれます。
尾崎放哉が小豆島にきて3ヶ月後に書いた「入庵雑記」にも、「同人井上氏の御同情は申す迄も無く至れり尽せりでありまして・・・」とあります。
いくら師匠の願いとはいえ、当時、肺結核という伝染病を患い、お酒の癖は悪い上に無収入の放哉を受け入れるのは迷惑だったことと思いますが、それでも食事や金銭の支援をし続けました。

1926年(大正15年)に放哉が亡くなった数年後、井上文八郎氏は、渕崎村長に就任し、大阪の東洋紡績の誘致に成功します。また、香川県議や、土地改良区組合長、小豆島ロータリークラブの初代会長など、さらなる要職を歴任し、小豆島の産業、観光の推進、そして生活や自然環境、文化の保全の基礎を作り上げられました。
そこには、産業や観光、どれか一つに目を向けるのではなく、全てを総合的に考え、計画的に開発していく姿勢が見て取れます。

そして、1946年の終戦の翌年には、常務理事の井上文八郎をはじめ多くの人によって、小豆島観光協会の前身である小豆島開発協会が設立されます。
設立趣意書には、「吾人同士相謀り国土再建は先ず脚下の郷土小豆島よりの見地に立ち、島民有志諸賢に檄し、我か小豆島の開発を目的として島の産業、経済、交通、観光、文化の発展に就いて貢献する為め、茲に小豆島開発協会を設立する所以であり・・・」と書かれていました。
戦後の混乱期に、井上文八郎氏をはじめとする偉人たちの先見の明、そして努力を感じると共に、現在島に暮らす私たち、そして観光に訪れて下さるお客様の環境は、この知恵と努力によって整えられたのだと改めて感じました。
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井上文八郎の心は、島のあちこちで引き継がれています。
そして一年に一度の放哉忌は、放哉の人生や句、そして当時の小豆島や小豆島を築いてきた人たちとその心について知る貴重な機会です。これからも足を運び続けたいと思います。

小豆島観光協会 岸本
posted by 小豆島観光協会 at 16:13| 香川 ☁| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする